備忘録 Part.2

アニメ、漫画、本、映画、ソシャゲなど思いついたことを書きます

106.まいおどる

女子高生に大人気、モデルもこなすカリスマアーティストみたいな人たちの歌詞、頻出ワードに「自分を愛せない人は人も愛せない」ってある。
そんなこと言われてもそんな歌詞で救われるような生半可な卑屈さしていない。
甘えたこと抜かしてんじゃねぇ。

 

じゃあ卑屈な自分には、ありのままの自分がいい系の歌詞の曲の方がいいのか、と思われる。
しかし、自分は卑屈こじらせすぎて、俺はこんなにも世の中の厳しい流れに耐えているのにそんな甘えたメンタリティしてんじゃねぇよ、とまた腹が立つ。

 

昔はそんな歌も好きだったし背中を押されたような記憶もある。
自分を曲に重ねてそこにあるメッセージに自分を置き換えて受け取っていた。
背中を押されたからといって生活は何一つとして変わらなかったけど、それでも励まされた気持ちになったものだ。

 

しかしながら、頻出テーマ楽曲の自分の楽しみ方は半ば音楽の命題と化したそのテーマを作詞作曲した人がどういう切り口で構成したかというところの方が興味が高い。
今でも昔好きだった曲は聞くけれど、「あぁ、こういう言葉を使ってたからいいのか」という新たな発見があると共に自分の感性の変遷を感じる。

 

過去に両親が歳をとると物の見方が変わってくる、という話をしていた。
中学生くらいのころだったと思う。

中高生の頃は卑屈であっても卑屈なりにきっといつか自分の人生は楽しいことばかりに違いないと思っていた。

楽しいことは多かったけれど、楽しい分辛いこともあり、というか辛いことが8割くらいでいつか生活は良くなるに違いないと信じ込んでいた。

 

しかし、楽しいことは一定量をきちんと守る。それなのに辛いことは選択肢が増えるのに比例して増えていく。
でもこれは自分に限った話じゃなく、両親や他の人もみんな同じだ。
歳をとるということはそんな現実を知っていくことと半ば同義にすら思えてくる。

 

20代に入るまでは音楽にも映画にも小説にも漫画にも何でもかんでも陶酔できた。
自分はその中の誰かに置き換えられたしそんな受け取り方しかしていなかった。
しかし、今ではどこか俯瞰で見てしまう。
そんなことあるわけねぇだろ、とか、まぁこいつにはなれないよなー、と頭にどこかある。

 

感性が変わるということはたぶんそういうことなんだろう。

自分に何も考えず置き換えられていたのが、色々と現実を見て陶酔できなくなってしまうから自然と物事の見方も変わってしまうんだろう。
女子高生に大人気のカリスマアーティストの曲が女子高生にしかウケないのはいつか現実にさめてしまうからであり、それを作る側もわかって陶酔しやすく作っているように思えてくる。

 

では、自分に当てはめられない見方では何もいいと思えない、ということになるのか、と言われればそうではない。
昔自分がいいと思っていたものは必ず誰かには評価されていて、評価されうるだけの理由がある。
陶酔式の見方でいいと思ったものも実は陶酔していいと思えるだけの何かがその中にあるからに違いない。
陶酔できるということは現実味を帯びている必要があり、歌詞が細やかだったり受け手の解釈を妨げない無駄のなさに配慮がある。

 

話は変わって、かつて陶酔して聞いていたかは知らないけど、ものすごく聞いていたアルバムがあった。
リードトラックを毎回口ずさみ何度も何度も1曲めに戻していた。
そんな学生時代に大好きだった人たちが自分の好きだった時代からつけてきたキャリアと実力をかけて作り上げたものが良くないわけがない。

ものすごく楽しみで仕方がなくて困っている。

 

ナタリー見てください。